第10回までで指向性スピーカーのハードウェアが完成しました。舞台はここからデジタルに移ります。実際の製品において音はアナログ → ADC(数値への変換)→ デジタル処理 → DAC(再びアナログへ)→ フィルターという旅を経ます。その旅の出発点に立つ一つの規則が今回のテーマ —— ナイキスト・シャノンの標本化定理です。
この定理は一般のオーディオ機器では「44.1kHzで十分」の一行に要約されて終わります。ところが私たちが扱う信号は40kHzの超音波搬送波です。可聴上限の2倍を超える周波数をデジタルで生成しなければならなくなった瞬間、この定理は要約ではなく設計仕様を決める計算式になります。標本化周波数はいくつにすべきか、その前段のフィルターは何次必要か、何ビット必要か、遅延はどれだけ生じるか —— すべてがこの一行から枝分かれします。
音を数値に変える二つの軸 —— サンプリングレートとビット深度
連続したアナログ波形をデジタルに移すときは、二つの方向に細かく刻みます。
- サンプリングレート —— 時間軸。1秒間に何回波形の値を記録するかを決めます。CDオーディオは毎秒44,100回(44.1kHz)です。
- ビット深度 —— 振幅軸。記録する値一つをどれだけ細かい目盛りに載せるかを決めます。16ビットなら65,536段階です。
二つの軸は性質がまるで違います。ビット深度は「どれだけ精密に」の問題なので、不足しても雑音が増えるだけであり、雑音は元の信号の上に加算される成分ですから後からある程度は管理できます。しかしサンプリングレートが不足すると音そのものが別の音に化けます。化けた信号は元の信号と同じ帯域の中に座ってしまうため、いったんそう記録されてしまえばどんな後処理でも分離できません。取り返しのつく失敗と、つかない失敗の違い —— これが時間軸の規則を先に扱う理由です。
粗く打つと幽霊が出る —— エイリアシング
標本をまばらに打つと、その点をつないで復元した波形は元とはまったく別の偽の低周波になります。この幽霊信号がエイリアシング(Aliasing)です。日常でも目にします —— 映像の中の飛行機のプロペラがゆっくり逆回転して見える錯覚がまさに同じ現象です。カメラのフレームレート(時間標本化)がプロペラの回転に追いつけないのです。
幽霊がどこに現れるかは正確に計算できます。標本化周波数f_sで入力周波数fを打つと、折り返された周波数はfからf_sの整数倍のうち最も近い値までの距離になります。
f_alias = | f − round(f ÷ f_s) × f_s |
この式に指向性スピーカーで実際に出会う周波数を入れてみると、標本化周波数を誤ることがどれほど危険かが一目でわかります。下表の値はすべて上式で直接計算したもので、太字のセルは幽霊が可聴帯域(20Hz〜20kHz)に落ちて実際に聞こえてしまう場合です。
| 入力周波数 | 48kHz標本化 | 96kHz標本化 | 192kHz標本化 | 384kHz標本化 |
|---|---|---|---|---|
| 20kHz(可聴上限) | 20kHz 正常 | 20kHz 正常 | 20kHz 正常 | 20kHz 正常 |
| 40kHz(搬送波) | 8kHz 幽霊 | 40kHz 正常 | 40kHz 正常 | 40kHz 正常 |
| 60kHz(上側波帯の端) | 12kHz 幽霊 | 36kHz 幽霊 | 60kHz 正常 | 60kHz 正常 |
| 80kHz(搬送波の第2高調波) | 16kHz 幽霊 | 16kHz 幽霊 | 80kHz 正常 | 80kHz 正常 |
| 100kHz(駆動段のスイッチング残留) | 4kHz 幽霊 | 4kHz 幽霊 | 92kHz 幽霊 | 100kHz 正常 |
| 120kHz(駆動段のスイッチング残留) | 24kHz 幽霊 | 24kHz 幽霊 | 72kHz 幽霊 | 120kHz 正常 |
2行目がこの表で最も恐ろしいセルです。よくあるオーディオインターフェースの48kHzで40kHz搬送波を打つと、搬送波は消えて8kHzのはっきりした耳障りな音が残ります。聞こえてはならない信号が、最もよく聞こえる帯域のど真ん中へ移り座るのです。3行目からはさらに巧妙です —— 96kHzは40kHz搬送波そのものは正しく捉えますが、搬送波の隣に付く側波帯(60kHz)と高調波(80kHz)が折り返して信号帯域の中に入ってきます。搬送波だけを見て標本化周波数を決めてはならないということです。
ナイキスト・シャノンの定理 —— 2倍の規則
ではどれだけ細かく打てば安全でしょうか。定理の答えは明快です —— 信号の最高周波数(f_max)の2倍より速く標本化せよ(f_s > 2·f_max)。周波数領域で見れば理由がわかります。標本化は元のスペクトルの複製をf_s間隔で並べる操作であり、f_sが2倍の規則を守れば複製どうしの間に隙間(Gap)が残って元をきれいに切り出せますが、規則を破ると複製が重なって(Aliasing Overlap)元に戻せなくなります。CDが44.1kHzである理由もここにあります —— 可聴上限20kHzの2倍(40kHz)に、フィルターのための余裕分を足した数字です。
この規則には二人の名前が付いています。1928年、電信伝送理論を整理した論文の中で、帯域幅Bの伝送路が毎秒2B個の独立したパルスを運べるという限界が示されます。通信線路の容量を論じた問題であって、音をデジタルに変える話ではありませんでした。その結果を標本から元の信号を完全に復元するという形に定式化したのが1949年の論文で、今日私たちが使う形 —— 標本をsinc関数で補間すれば元の帯域制限信号が正確によみがえる —— はそこから出ています。通信の言葉で生まれた定理が、オーディオ・映像・計測の共通基盤になるまでに20年余りを要したわけです。
実務で必ず覚えておくべき但し書きが二つあります。第一に、定理が要求するのは信号が完全な帯域制限状態にあることです。実際の信号には常に帯域外成分と雑音が混じっているため、標本化の前に必ずフィルターが要ります。第二に、不等号は等号を含みません。f_s = 2·f_maxちょうどに合わせると、ちょうどナイキスト周波数に置かれた成分は位相によっては振幅ゼロで標本化されうるのです。40kHzをちょうど80kHzで打つと1周期あたり2点ですが、その2点が毎回波形のゼロ交差点に落ちれば記録される値はすべて0になります。「2倍以上」ではなく「2倍超」であり、実務では超過分を十分に取ります。
時間と空間は同じ数学である —— 第8回とのつながり
第8回でアレイ素子の間隔がd ≤ λ/2でなければならないと述べたのを覚えておられるでしょう。あのときは「デジタル標本化のナイキスト定理と同じ原理」とだけ書いて通り過ぎましたが、いまその言葉を正確に確かめられます。二つの規則は比喩ではなく、同じ式の変数名を変えただけです。
アレイは連続した波面を素子の位置で空間的に標本化しています。時間標本化率が1秒あたりの標本数なら、空間標本化率は1メートルあたりの標本数 —— すなわち1/dです。そして信号の最高時間周波数f_maxに対応するのは最高空間周波数1/λです。これをそのまま2倍の規則に入れると
1/d > 2 × (1/λ) ⟹ d < λ/2
が得られます。第8回の第一規則がナイキスト定理から一行で導かれたことになります。対応関係を整理すると —— 標本間隔Δt ↔ 素子間隔d、標本化周波数f_s ↔ 1/d、ナイキスト周波数f_s/2 ↔ 1/(2d)、エイリアシング ↔ グレーティングローブ、アンチエイリアシングフィルター ↔ 素子指向性、となります。最後の対応が特に面白いところです。時間軸で帯域外成分をあらかじめ切り落とすのがアナログフィルターなら、空間軸では素子一つひとつの指向パターンが大きな角度から来る成分をあらかじめ殺し、グレーティングローブを弱める役割を果たします。第8回で素子直径をλ/2以下に制限したのは、まさに空間領域のアンチエイリアシング設計だったのです。
アンチエイリアシングフィルター —— 本当の代価は遷移帯域
先に述べたとおり、標本化器の前にはナイキスト周波数より上の成分を切り落とすアンチエイリアシングフィルターが必ず付きます。問題は理想的な「壁」を作れないことです。実際のフィルターは通過域端(f_p)から阻止域の始まり(f_stop)まで遷移帯域を置いて緩やかに下がります。そして阻止域が始まらねばならない地点は決まっています —— 折り返して通過域に入るのを防ぐため、f_stop = f_s − f_pです。
必要な減衰量も決まっています。折り返した成分が量子化雑音より小さくなければ意味がないので、16ビットのシステムなら後で計算する約98dBが基準になります。アナログフィルターの減衰は極1つあたり1オクターブ6dBですから、必要な極数は98dBを遷移帯域のオクターブ数で割った値です。以下がその計算結果です。
| 条件 | 通過域端 | 阻止域の始まり | 遷移帯域幅(オクターブ) | 98dBに必要な極数 |
|---|---|---|---|---|
| CDオーディオ(44.1kHz) | 20kHz | 24.1kHz | 0.27 | 約60極(事実上不可能) |
| 48kHzオーディオ | 20kHz | 28kHz | 0.49 | 約34極 |
| 192kHz・オーディオ帯域のみ | 20kHz | 172kHz | 3.10 | 約5.2極 |
| 192kHz・搬送波帯域 | 60kHz | 132kHz | 1.14 | 約14.3極 |
| 384kHz・搬送波帯域 | 60kHz | 324kHz | 2.43 | 約6.7極 |
1行目が1970〜80年代の初期デジタルオーディオがぶつかった壁です。20kHzまで平坦で24.1kHzで98dB下げるには60極を超えるアナログフィルターが必要ですが、そんなフィルターは作れませんし、仮に作れても通過域内で位相がひどく歪みます。標本化周波数を節約すると、その費用はそっくりアナログフィルターに請求される —— これがこの表の結論です。逆に標本化周波数を上げれば遷移帯域が広がり、フィルターは急激に容易になります。192kHzでオーディオ帯域だけを扱うなら、5極程度のありふれたフィルターで十分です。
オーバーサンプリング —— フィルターをアナログからソフトウェアへ移す
この観察を設計戦略にしたのがオーバーサンプリングです。発想は単純で、必要よりはるかに速く標本化してアナログフィルターの負担をなくし、本当に鋭い遮断はデジタルフィルターで後から行い、そのうえで標本化周波数を必要な値まで下げる(デシメーション)というものです。アナログ領域で作りにくい特性をデジタル領域へ移す取引であり、デジタルフィルターは係数を変えるだけなので部品のばらつきも温度ドリフトもありません。
おまけも付いてきます。量子化雑音の総量は標本化周波数によらず一定ですが、オーバーサンプリングをするとその総量がより広い周波数範囲に広がります。関心のある帯域内に残る雑音はその分減り、利得は10·log₁₀(OSR) dB —— 4倍のオーバーサンプリングごとに6dB、すなわち1ビットずつ稼げます。標本化周波数を4倍にして1ビットを買う勘定であり、雑音を積極的に帯域外へ押し出すノイズシェーピングを併用すればこの交換比はさらに有利になります。シグマデルタ変換器が1ビットに近い粗い量子化器で24ビット級の性能を出す原理がこれです。
- 2倍オーバーサンプリング —— 3.0dBの利得、0.5ビット
- 4倍 —— 6.0dB、1ビット
- 8倍 —— 9.0dB、1.5ビット
- 16倍 —— 12.0dB、2ビット
指向性スピーカーではこの戦略が出力側で特に重要になります。DACの後段の再構成フィルターもアンチエイリアシングフィルターと同じ問題を抱えるうえ、階段状の出力(ゼロ次ホールド)そのものによる減衰が加わります。ゼロ次ホールドはf_sに対してsinc状に高域を削りますが、192kHzで40kHz搬送波が受ける減衰を計算すると0.63dBです。同じ計算を48kHzでの20kHzに当てはめると2.64dB —— 4倍を超えます。標本化周波数を上げるだけで搬送波の振幅損失がひとりでに減るということであり、残る0.63dBはデジタルフィルターであらかじめ補償できます。
振幅軸の精度 —— 6.02N + 1.76
ここからが第二の軸です。量子化は連続した値を最も近い目盛りに丸める操作であり、そのとき捨てられる誤差が量子化雑音です。この誤差を目盛り幅の中に一様に分布する雑音とみなせるという解析が1948年に整理され、その上でフルスケール正弦波に対する信号対雑音比が次の一行で得られます。
SNR = 6.02 × N + 1.76 [dB](N = ビット数)
係数6.02はビット1つが振幅を2分割することを意味し(20·log₁₀2 = 6.02dB)、1.76は正弦波の実効値と一様分布雑音の実効値の比から出る定数です。1ビットがちょうど6dB —— この換算率がオーディオ設計の基本単位です。
| ビット数 | 量子化段階 | 理論SNR | 2Vフルスケールでの1段階 | 用途 |
|---|---|---|---|---|
| 8ビット | 256 | 49.9dB | 7.81mV | 雑音がはっきり聞こえる |
| 12ビット | 4,096 | 74.0dB | 488µV | 制御・計測用 |
| 16ビット | 65,536 | 98.1dB | 30.5µV | 配布フォーマットの基準 |
| 20ビット | 1,048,576 | 122.2dB | 1.91µV | 高級変換器 |
| 24ビット | 16,777,216 | 146.2dB | 0.12µV | 内部処理の余裕確保 |
表の最終行は誤解の多いところです。24ビットの146dBは実際に得られる値ではありません。常温で抵抗が生む熱雑音だけでもその下の桁は埋もれてしまうからです。24ビットを使う理由は146dBを聴くためではなく、処理の過程で削り取ってよい余裕を確保するためです。ゲインを下げてまた上げ、フィルターを何段も通し、変調の計算を繰り返す間に下位ビットは消費され続けます。内部処理を十分なビット数で行い、出力だけを16ビットに落とすのが標準的な構成です。
指向性スピーカーにはさらにもう一つ加わります。標本を打つ時刻が揺らぐと(アパーチャジッター)それ自体が雑音になり、その限界は−20·log₁₀(2π·f·t_j)で計算されます。信号周波数fが括弧の中にあるため、高い周波数ほど同じジッターで大きく傷つきます。1ナノ秒のジッターでは20kHzは78dBを保ちますが40kHzは72dBまで落ち、40kHzで16ビット(98dB)を活かすにはジッターを100ピコ秒以下に管理しなければなりません(計算値92dB)。搬送波を扱うシステムがクロック回路にことのほか神経を使う理由です。
指向性スピーカーの標本化 —— 40kHzの扱い方
ここで指向性スピーカーの特殊性が現れます。一般のオーディオ機器は20kHzまで扱えば足りますが、私たちは40kHzの超音波搬送波をデジタルで作らねばなりません。ナイキストの規則では最低80kHz —— 実務では余裕を持たせて192kHz標本化を使います。そうすれば40kHz搬送波の1周期あたり4.8個のサンプルが確保され、DACの補間を経れば滑らかな波形に復元されます。一般のサウンドカード(44.1/48kHz)では搬送波を作ることすらできない —— 指向性スピーカーの信号処理ハードウェアがオーディオ機器と異なる理由です。
ただし「80kHzで足りる」という計算は搬送波だけを見たときの話です。実際に出力すべきは変調された信号であり、40kHz搬送波に20kHzまでのオーディオを振幅変調すると、スペクトルは20kHz(下側波帯の端)から60kHz(上側波帯の端)まで広がります。ここに第12・13回で扱う平方根前処理を適用すれば帯域はさらに広がります。最高周波数が60kHzならナイキストの最小値は120kHzであり、遷移帯域まで確保するにはそれより上でなければなりません。候補を並べて検討すると次のようになります。
| 標本化周波数 | ナイキスト周波数 | 40kHz 1周期あたりのサンプル | 60kHzまで収まるか | 判定 |
|---|---|---|---|---|
| 48kHz | 24kHz | 1.2個 | 不可 | 搬送波が8kHzに折り返す |
| 96kHz | 48kHz | 2.4個 | 不可 | 搬送波は可だが側波帯が折り返す |
| 192kHz | 96kHz | 4.8個 | 可(余裕36kHz) | 標準的な選択 |
| 384kHz | 192kHz | 9.6個 | 可(余裕132kHz) | 高調波まで管理、演算量は2倍 |
192kHzが答えになる理由が表から読み取れます。ナイキスト周波数96kHzから信号上限60kHzを引くと36kHzの余裕が残り、この幅がそのままアンチエイリアシング・再構成フィルターの下りる滑走路になります。先のフィルター表で計算したとおり、この条件なら14極ほど —— 大半をデジタルフィルターで処理し、アナログは緩やかなローパス一つで仕上げられる水準です。一方384kHzを選べば搬送波の第2高調波(80kHz)まで歪みなく管理できますが、同じフィルター長に対して演算量と消費電力が2倍になります。標本化周波数を選ぶことはフィルターの難度と演算コストを交換する取引であり、40kHz搬送波ではその均衡点が192kHz付近にあります。
ブロック長が決める遅延 —— リアルタイムという条件
標本化周波数は遅延にも直接関わります。デジタル信号処理はたいてい標本を1つずつではなくブロック単位でまとめて処理します。するとブロックが満ちるまで待つ時間がそのまま遅延になり、その値は割り算一回で出ます。
バッファ遅延 = ブロック長(サンプル)÷ 標本化周波数
同じブロック長でも標本化周波数が高ければ遅延は減ります。以下がその計算で、右の列はその時間に音が空気中を進む距離(音速343m/s)です。遅延を「スピーカーを何cm後ろに下げたのと同じか」に読み替えると感覚がつかめます。
| ブロック長 | 48kHzでの遅延 | 192kHzでの遅延 | 192kHz遅延の距離換算 |
|---|---|---|---|
| 32サンプル | 0.67ms | 0.17ms | 5.7cm |
| 64サンプル | 1.33ms | 0.33ms | 11.4cm |
| 128サンプル | 2.67ms | 0.67ms | 22.9cm |
| 256サンプル | 5.33ms | 1.33ms | 45.7cm |
| 512サンプル | 10.67ms | 2.67ms | 91.5cm |
| 1024サンプル | 21.33ms | 5.33ms | 182.9cm |
ブロックを短くすれば遅延は減りますが、ブロックごとに付く固定費(関数呼び出し、フィルター状態の更新、割り込み処理)の比重が増して演算効率が落ちます。逆に長くとれば効率は上がるものの遅延が増えます。192kHzでの256サンプルは1.33ms —— 音が46cm進む時間であり、この程度ならたいていの設置環境では聴取者までの伝搬遅延に埋もれます。信号処理全体の遅延予算はフィルター遅延まで足す必要があり、その計算は第14回で項目ごとに改めて扱います。
限界とよくある誤解
- 「標本化は階段だから元と違う」 —— 最もよくある誤解です。標本と標本の間が階段でつながるのは標本化の性質ではなく、再構成フィルターを通る前のDAC出力の形にすぎません。帯域制限の条件を守っていれば標本には元の信号の情報が一つ残らず含まれており、sinc補間で元の波形が正確によみがえります。階段は最後のフィルターで消えます。
- 「標本化周波数は高いほどよい」 —— 無料ではありません。演算量・メモリ・消費電力が比例して増え、帯域が広がった分だけ帯域外雑音とジッターの影響も入ってきます。信号の上限が決まれば必要な値は計算されるものであり、際限なく上げる対象ではありません。
- 「ビットを増やせば音が大きくなる」 —— ビット数が決めるのは最大音量ではなく、最も小さい音と最も大きい音の間隔(ダイナミックレンジ)です。音量は後段の増幅器の仕事です。
- 「エイリアシングは後からフィルターで消せる」 —— 不可能です。折り返した成分は信号帯域の中に座っており、元の成分と区別がつきません。アンチエイリアシングフィルターが必ず標本化の前になければならない理由であり、デジタル領域でどれほど良いフィルターを使っても、すでに混ざったものは分離できません。
- 「定理を守れば完璧だ」 —— 定理は理想的な条件下の話です。完全な帯域制限信号、無限長のsinc補間、ジッターのないクロック、誤差のない量子化 —— 四つとも現実にはありません。定理は越えてはならない線を教えるだけであり、その内側の品質はフィルター・クロック・ビット設計が決めます。
まとめ
デジタルの音は毎秒のサンプル数(レート)と目盛りの数(深度)で記録され、標本化は最高周波数の2倍を超えなければ元が保たれません。破れば時間軸でも(エイリアシング)空間軸でも(グレーティングローブ)幽霊が現れ、二つの規則は変数名だけが違う一つの式でした。40kHz搬送波に20kHzのオーディオを載せると信号は60kHzまで広がり、フィルターの下りる滑走路まで計算すると192kHzが均衡点になります。振幅軸ではビット1つが6.02dBであり、16ビットの98dBはアンチエイリアシングフィルターに必要な減衰量をそのまま決めてくれます。次回は、こうして作ったデジタル信号で搬送波に音を載せる技術 —— 変調(AM・FM・PWM)です。
シリーズ案内
「指向性スピーカーの科学」は以下の順で続きます。
- 指向性スピーカーとは何か —— 音の懐中電灯
- 聞こえない音に音を載せる —— 動作原理の第一歩
- 指向性スピーカーの活用事例 —— 展示・安全・リテール・オフィス
- 超音波とは何か —— 定義・種類・伝搬特性
- なぜ超音波か —— 生成原理と応用地図
- 空気がスピーカーになる魔法 —— PAA非線形音響
- PAA理論の深化 —— Berktay・Westervelt・KZK
- 音を照準する —— フェーズドアレイとビームフォーミング
- 圧電効果 —— 電気が音になる瞬間
- 超音波トランスデューサ設計 —— 共振と配置
- ナイキスト定理 —— デジタル音の出発点(今回)
- 以降:変調入門、変調戦略、信号処理の最適化
このシリーズは超音波指向性音響技術を自ら研究・整理した自作の講義資料をブログ形式で再構成したものです。図版は当該資料から抜粋しています。
参考資料
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- C. E. Shannon, "Communication in the Presence of Noise," Proc. IRE 37(1), 10 (1949):帯域制限信号を標本から完全復元する定式化とsinc補間 —— 本文の定理の最終形
- W. R. Bennett, "Spectra of Quantized Signals," Bell Syst. Tech. J. 27(3), 446 (1948):量子化誤差を一様分布雑音として扱う解析 —— SNR = 6.02N + 1.76dBの根拠
- B. Widrow, "Statistical analysis of amplitude-quantized sampled-data systems," Trans. AIEE Part II 79, 555 (1961):量子化雑音モデルが成り立つ条件を標本化理論とともに整理した論文
- J. C. Candy, "A Use of Double Integration in Sigma Delta Modulation," IEEE Trans. Commun. 33(3), 249 (1985):オーバーサンプリングとノイズシェーピングで粗い量子化器から高分解能を得る方式
- P. P. Vaidyanathan, "Multirate digital filters, filter banks, polyphase networks, and applications: a tutorial," Proc. IEEE 78(1), 56 (1990):オーバーサンプリング・デシメーション・補間の理論整理 —— 標本化周波数変換の標準参照
- M. Unser, "Sampling—50 Years After Shannon," Proc. IEEE 88(4), 569 (2000):標本化定理の系譜と現代的拡張をまとめた総説 —— 理想条件と現実の隔たり
- T. W. Parks & J. H. McClellan, "Chebyshev Approximation for Nonrecursive Digital Filters with Linear Phase," IEEE Trans. Circuit Theory 19(2), 189 (1972):遷移帯域と減衰量を指定してデジタルフィルターを設計する標準手法
- F. J. Harris, "On the use of windows for harmonic analysis with the discrete Fourier transform," Proc. IEEE 66(1), 51 (1978):有限長の標本でスペクトルを見るときの漏れと窓関数 —— 標本化以降の解析段階の基準
- H. O. Berktay, "Possible exploitation of non-linear acoustics in underwater transmitting applications," JSV 2(4), 435 (1965):復調音が変調包絡線の2階微分に比例するという関係 —— 信号帯域が60kHzまで広がる理由の出典
- M. Yoneyama et al., "The audio spotlight: An application of nonlinear interaction of sound waves to a new type of loudspeaker design," JASA 73(5), 1532 (1983):40kHz帯の搬送波を使う空気中パラメトリックスピーカーの最初の実現
- Nyquist–Shannon sampling theorem — Wikipedia:定理の記述・証明・折り返し周波数計算の概観